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2012/09/16

いのちのおと

 うちが農園をやっているから、というわけではないですけれど、
やっぱり気にしているせいか、さまざまないのちの営みのさざめきというか、
音を感じるようになりました。

↑巣から落ちてしまった子ハチドリ。
巣に戻してあげたけれど、生き延びたかはわかりません。

↑生まれたばかりの山鳩のヒナ
でも次にのぞいたらもういなかったから、
ひょっとしたら大きな鳥や動物に食べられてしまったのかも。

↑ネコにつかまったトカゲ。
最初、ネズミかと思ったらトカゲでびっくり。

↑まだ抵抗を試みるトカゲ。
逃がしてあげようか迷った挙げ句、そのままに。

↑貯水池のオタマジャクシ。無数にいた。

 毎日、何かしら見つけます。それは、生まれたばかりの小さな命だけではなくて、
朽ちていく命も。草も花も実も同じ。芽が出てふくらんで、花が咲いて、実る。
食べる命もあれば、食べられる命もある。多分どちらがめでたくて、どちらが
悲しいということではなくて、巡り巡っていくもの、複雑に絡み合ってお互いが
支え合っていくものなのだと思います。私たちの目に見えるよりも何万倍も、
このような大小様々ないのちの循環があるんですね。

 最近、Keiboがおみやげにくださった本、「いのちの中にある地球」を読みました。
全文引用したいくらい全部印象的なのですが、その中でも印象深かったのは、
海のサケが川に戻ってくるその行為によって、他の動物のえさになったり、
分解したりして、海の窒素が山のもたらされるという箇所でした。
熊は一シーズンに600匹以上ものサケを食べるそうです。でも全部食べずに、
半分くらい残して、他を探す。その食べ残しを食べる鳥や虫がいて、その腐った
死骸に群がる微生物がいて、またそれを食べる動物がいる。そしてまた山の栄養が、
海に還っていく。そしてまたサケも巡り巡ってその恩恵に浴するのでしょう。
単純に書いてもこれだけのつながりがあって、人間が把握していないことも
もっともっとあるのでしょう。逆に言えば、仮にサケが川に戻らないと
いうことになったら、単にサケが繁殖をしないというだけにとどまらず、
魚を食べていた動物や虫たちは存続の危機に直面し、その動物たちから恩恵を
受けているまたその動植物たちは、また危機に面するという、ドミノ倒しの
ようなことが起こるわけです。

 もう10年以上前に、パーマカルチャージャパンの設楽さんにインタビューしたとき、
「くじらを救おうっていうのは、本当はくじらのためなんかじゃなくて、
くじらが住めないような世界っていうのは、人間も暮らせなくなるからなんだよ」と
おっしゃっていました。

 くじらもサケも人間も、生きとし生けるものはすべて、目には見えないけれど、
「複雑なかたちの花のリースのように、どこまでもつながって」、
(昔しほねえさんからもらった「ディングルの入り江」より。「多分すきだと思って」
とくれました。今もよく読み返しています。)、影響しあって、支え合っているのだと
思います。そう思うと、というよりも、感じることができるようになると、
ちゃんとそれぞれをリスペクトできるようになるのではないかと思います。
うちにいる動物や植物たちはほとんど家畜だったりするし、在来のものではなかったり
しますが、それでも、それぞれのいのちがここでそれぞれの営みを行っている。
世界にはそのバランスが崩れて、何かが異常発生したりもしていて、一概には
言えないものの、それをむやみやたらと、除去するようなことはできません。

 仮にサケがいなくなっても、カエルがいなくなっても、人間がいなくなっても
別に地球は困らない。むしろ地球にとっては、人間なんかいない方がいい。
でも私は、人間たちが生きていける世界であってほしいと思う。
私たちの子どもたちの子どもたちも安心して生きていける世界であってほしい。
だから、自分たちの行為も同じようにいろんなところに影響していることも
ちゃんと意識していかないといけないと思うのです。
だから、いのちのおとを子どもたちにもちゃんと聞いてほしいと思うのです。
きれいごとじゃなくて、そう切に思う。



 それにしても毎日オタマジャクシの変化が楽しくて、いい年して見に行ってしまう
私って。でもしばらくしたら、みんなカエルさんになってしまったらしく、もう
誰もいなくなっていました。カナシイ。

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