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2012/03/11

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一年前の今日、日本でたくさんのいのちが失われました。



亡くなられた方々のご冥福を改めてお祈りするとともに、
未だ避難生活を余儀なくされている方の穏やかな日常が戻りますようにと願っています。

日本で様々な地域で様々な人がそれぞれのできることを模索し、実行しています。


ここ、エクアドルで、地震すら感じなかった私に、日本にいない私に何ができるだろう、
そう考えることすらおこがましいような気さえしました。


でも。
直接日本のために、あるいは日本人のために、何かできなくても、
私たちがやっていることのメッセージは、うちにくるボランティアさんや
ビジターさんたちに伝えることはできる。


これは、福島にあるお母さんの詩です。あいさんの船乗り日記から拝借しました。


***



ふくしまで暮らす、ということ。


わたしが、ふくしまで暮らすということ。


わたしにとって、ふくしまで暮らすということ。


たとえば、朝起きて窓を開けて深呼吸する習慣がなくなったこと。


たとえば、洗濯物を外に干せないということ。


たとえば、庭の畑で採れた野菜を捨てるということ。


たとえば、私が何も言わなくても線量計とマスクを身につけて外出する娘の姿に胸がチクっと痛むということ。


たとえば、この真っ白な雪に触れられないということ。


たとえば、「がんばろう福島」のスローガンに時々微かな苛立ちを感じるということ。


たとえば、いつのまにか呼吸が浅くなっているということ。


たとえば、福島に住んでることを誰かに話すとき、「でもうちはまだ線量が低いから…」ときかれてもいないのに説明してしまうこと。


たとえば、ふくしまには福島とFUKUSHIMAがある、と感じること。


たとえば、ふくしまに「とどまれ」と言われると「人の命をなんだと思ってるんだ!」と言いたくなり、「避難しろ」と言われると「そう簡単に言うな!こっちにも事情があるんだ!」と言いたくなってしまうこと。


たとえば、6歳の娘が将来結婚できるかが今から心配になってしまうこと。


たとえば、ふくしまに住んでいるという選択の責任を放棄したくなること。


たとえば、わたしたちの日常が誰かの犠牲と努力によって保たれている薄氷のような「安全」の上に成り立っているという当たり前の現実を、毎朝腹の底から理解するということ。


たとえば、明日にはこの家を遠く離れるかもしれない、と毎晩考えること。


たとえば、それでも明日もこの家で暮らせますように、と毎晩祈ること。


とにかく、娘の健康と幸せを祈ること。


あの黒煙が脳裏から離れないこと。


それでも、毎日をそれなりに楽しく暮らしていることを、誰かにわかってほしいということ。


毎日、怒ること。


毎日、祈ること。

ふくしまを代表するつもりも代弁するつもりもありません。これがわたしの、わたしだけのふくしまで暮らすということ。


今日が、ふくしまにとっての10ヶ月。

***

こういう思いをずっとずっとしている。
出口が見えない。
そんな人が、本当にたくさんいる。
1年経っても、消えるどころか、苛立ちや悲しみが増えている。
そんな思いや現状を押しのけて、まだ原発を動かすという国に絶望してしまう。

原子力発電によって得られる電気を使っているのは私たち個人個人。
その影響を顧みず、湯水のように電気を使っている。
使わずに生活はできないけれど、使う量を減らすことはできるはず。
電気を使わなくても、できることはあるし、楽しくもできる。


だから、どうか、もうこれ以上、安全かどうかわからないものを、
人間の手に負えないものを使うのはやめよう。


人間らしく、人間の領分を生きていく。
神様はきっと、そんなふうに人間をつくったのだと思うから。


































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